タイに来て、変わった人生観。人生90年から成行き人生へ。最近の私の人生観。
私は、タイに来る前に、
友人の人達に、「私は人生90年、62歳でリタイアしたので、あと30年生きる為に、
頑張らねば」と言っていました。
タイへ来て、ブッダの世界、タイの世界、異国から見た日本を見て、
この考えが変わりました。
「生きる為の頑張りはやめた」
これは、どういう意味か?
タイへ来た翌年、
妻の母がパーキンソン病と老齢で介護状態。
私と妻で介護生活。
タイへ来る事を決めた時は、
こんな状況を想像した事すら無い。
でも、マイペンライ。
ここで、再度、こんな状態で考えました。
「楽しむ為に頑張ろう」とはどうすればよいのかと。
自分の都合の良いように考えれば良い?
介護は大変。確かに、「自分の意にならぬ」事もやらねばならぬ。
でも、この結果、自分にとって随分「無駄な時間」と「無駄な動作」が、
せっかちな自分に、「自分の意にならない事」の意味を教えてくれた。
母は、自分が動けないから、本当に「わがまま」を言う。
正確に言うと、病気でも、お腹が空く、トイレにも行きたい、
シャワーも浴びたい、でも、これはわがままではない。
ごく当然の欲求であるが、
世話する方からすると、これが結構高飛車で、「わがまま」に感じてしまう。
本当に疲れる。
ある意味で、諦めが肝心。
現状是認。
どうせ、「あきらめる」なら、仏教的に「あきらめる」事を楽しめばよいと。
誰かのために何かをする事は、結局、自分の為になると思った方が自分が
楽しめる。
力仕事も、下の世話も、宥める仕事も、自分の為。
苦しみと楽しみは表裏一体。
それ程深刻に考える事はない。
楽しみは何処にでもある。
人間は、必ず、生きる事を苦しみ、老いる事に苦しみ、病気になる事で苦しみ、
そして、死ぬ苦しみを必ず経験する。
だからと言って、悲観する事はない。
これは、人間全員が経験する事。
人間は楽に生きることはできない?
そんな事はない。
私の人生訓で言えば、、良い時が有れば、それと同じ様に悪い時がある。
人生50%、50%。
これは心強い。
今悪い時で有れば、次は良い時が来る。
日本では「葬式仏教」と言われるが、
仏教は応用の処方箋、本当に凄い。
仏教が必要な時には頼れ、不要であれば、それに越した事はない。
仏教が現実的であればあるほど、気を楽にしてくれる。
サボる事も許してくれる。
サボると言うことは、頑張った事の裏返し。
100%の人生は無い。
日本の実の母は、95歳になるが、
一人で、電動自転車で買い物、洗濯、掃除を自分でしている。
母に会うと、愚痴を言われるが、本音はわからない。
私に、決して、「日本に戻って来なさい、来て欲しい」とは言わない。
勿論、タイへ来たいとも言わない。
これもすごい事だと思う。
私も「こうありたい」と思う。
何事も、相手の事を考えてする。
私も心からそのように思い、行動したい。
しかし、いつの間にか、自分が中心の行動をとってしまう。
「あるがままに、なすがままに」の成り行き人生は、
それ程簡単ではない。
今を楽しむ事も、それ程簡単ではない。
しかし、すべての行為が、すべての事が、
最初から、思いどおりにいくものではないと思って行動すれば、
その中から、自分なりの楽しみを作り出せるかもしれない。
そう考えれば、「日々新た」への挑戦が楽しみになるではないか。
なにか、まとまりがなくなりましたね。
今の、私は、こんなもんでしょうか?
最近の私の人生観です。
犬も同じです。
いつも、やんちゃなジュディも、
時々、人生を考えている?
でも、本犬以外はわからないもの!